見る側が“感じればいい”だけの話

見る側が“感じればいい”だけの話

Leica Q2 “Reporter”

 

例えばこの写真のタイトルが「Osaka Windy Shadow」だったとする。

こんなタイトルをつけると、必ず「これって、タイトルもそうですけど、この写真、どういう意味なんですか?」と聞いてくる人がいる。

「そんなもん、そっちで勝手に考えてくれ!」というのが、正直な気持ちだ。

写真に限らず、本や映画だってきっとそうだろう。

それを見た、読んだ、その側が勝手にいろんなことを想像すればいいだけのことだ。

写真集や写真展、コンテストなんかでは写真一点、一点にもご丁寧にタイトルがつけられていることがあるが、あんなもの、ほぼすべてがきっと、どうせ後から、いろんなところから、適当に言葉や単語を引っ張り出してきて、ああでもない、こうでもないと、こねくり回したのちにつけられた“後付け”のものでしかないはずだ。

最初から確固たるコンセプトの元、世に送り出された写真作品なんて、長い歴史の中できっと数えるほどしかないだろう。

過去に大作家の先生方が世に送り出した作品も、そのタイトルのほとんどは、間違いなく“後付け”だろう。

と、こんなふうに断言して書くと各方面からお叱りを受けそうなので、このへんでやめておくけど(笑)

結局、何が言いたいのか?

要するに写真を見る側が、そこにある写真について撮り手側から、“おしつけがましく”ごちゃごちゃと説明される必要はないのですよ、ということ。

見た側が見たままに感じる。

それでいいでしょう。

何かにつけて、すぐに「これはどういう意味ですか?」と聞いてくる人たちは、もしかしたら決してご本人たちが悪いわけではなく、過去にやたらと撮り手側から「やれ、この写真は、どうしたこうした」と、聞いてもいないのにその写真を撮った状況を説明されたり、その写真を撮るのにどれだけ苦労したとかいう、どうでもいい講釈や苦労話を並べ立てられて、撮り手側の都合のいい方向へ誘導されてきたのかもしれませんね。

そうして、写真の持つ意味を撮った本人から聞かなければならない、撮り手側の意図を汲み取ってあげなければならない、写真とはそうしてみるものなのだ、と勘違いさせられてしまっているのかもしれませんね。

本当にいい写真は、それを撮った時の状況や、それを撮った人間の心情なんて、一切関係ありませんから。

やたらと説明したがったり、写真展でもよく意味のわからない文章を長々と添えている人がいたとしたら、それはきっと“ニセモノ”です。

もし、あなたの周りにそんな人がいたら、こう問うてみてください。

「あなたの写真は、そこまで長々と言葉を尽くして説明しないと、何も伝わらないモノなのですか?」

きっと、みんな、黙り込んでしまうでしょう(笑)

もちろんご本人のものではなく、第三者の批評や評論、推薦文の類が添えてある場合は、しっかり読んでみるのもいいと思います。

でも、それも「ああ、こんな考え方の人もいるんだ」くらいの感じで流しておくことをお勧めします。

そこに書いてあることが正解だと思うのではなく、「あの人はこんなふうに書いていたけど、自分はそうは思わなかった(そうは見えなかった)」でいいのです。

あくまで他人の意見として参考にする程度で、実際に自分自身も同じように感じた(見えた)のなら、それは賛同しておけばいい。

答えが一つしかない、なんてことはありえないのです。

写真なんて、きっとこんなものだと思いますよ…。

 

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