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他人と同じ写真を撮る意味

Leica SL2

 

今月も特に目的を決めず、ふらり、ふらりと思いつくまま各地を点々とする旅をしている。

車だと自分の好きなように自由気ままに移動できるのがいいよね。

前日、大阪から神戸を経由して岡山県津山市まで移動した。

そして今日、津山からだと山陰側の鳥取県米子市まで100キロちょっと、高速道路を使わなくても2時間もあれば到着できる距離だ。

急ぐ旅ではないし、目的も決めていないのだから、ここはゆっくりと一般道で、まずは山陰方面を目指す事にした。

車を走らせながら、もしかするとこのルートの途中にあったのではないか?という思いが浮かんだ。

何がだ? そう、「植田正治写真美術館」がだ。

前回訪れたのは2年ほど前だっただろうか…。

ここには、何度でも来たいと思っている。

今回、ここで感じたある違和感を書いておこう。

自分が到着した直後に観光バスが着いた。

いつもはそれほど混み合った記憶はないけれど、もちろん今回もそんなに混み合うほどの人数ではなかったのだが、そのバスでやってきたお客さんたちが、ちょっと気になった。

こんな書き方をすると誤解を招きそうなので、まず最初にお断りしておくが、そのお客さんたちの鑑賞マナーがなっていないとか、そういう類のものではない。

どうやら写真愛好家の方たち向けのツアーだったようで、カメラバックはもちろん、首にも肩にも複数台のカメラをぶら下げて館内を楽しんでおられた。

もちろん大騒ぎするでもなく回られているのだけれど、じゃあ何が気になったのかというと、このみなさん、ほぼ全員が一様に、誰かがカメラを向けると同じようにそちらの方向を撮影し始める。

誰が最初で、誰が真似するというわけではないのだけれど、とにかく行く先々で同じようなことをされていた。

中には、その団体さんとは無関係の自分がカメラを構えていると、すぐ背後に忍び寄るようにやってきて、同じように撮影を始められる。

「ここは俺が一番最初に気づいたアングルなのだからマネするんじゃねえよ」とか、そんな器に小さい人間ではないけれど、人が撮った後に同じような写真を撮って何が面白いのだろうかと、純粋に疑問に思ったわけだ。

いわゆる人気の撮影スポットでは、行列を作らんばかりの勢いで、流作業的に入れ替わり立ち替わり、撮影が繰り広げられていた。

何かのタイミングを待ってみたり、何かのチャンスをうかがうような素振りもなく、ただ、ただ、淡々とだ。

例えば、建物のガラス窓とガラス窓の間に大山が見え、両側それぞれのガラス窓には左右反対側の景色が映り込む場所でも、みなさんお行儀よく並んで、持ち時間でも決められているかのように順番に交代して撮影されていた。

そこにカメラを向けるだけでは、たぶん出来上がった写真は全て同じようなものでしかないだろう。

少し厳しい言い方をすると、誰かが気づかないと自分も気づかなかったであろうものは、それはもう自分で撮ったものとは言えないのではないだろうか。

さらに、自分なりの“なにか”を加えてこそ、オリジナリティーあふれる「作品」というものになるのではないだろうか。

プロならもちろんのことだけれど、アマチュアの方たちだって、きっとそういうものを狙った方が楽しくなると思うのだけれど…。

 

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